手紙を書こう☆
2013年 04月 05日
その手紙を、寒いけど、日が照っている午後に受け取って、太陽が当たる元で読みました。
てがみっていいなあって、思いました。手紙って、なんて心が温かくなるんだろう。
彼女の想い、彼女の繊細さ、彼女の傷、彼女の心の動きが伝わってきて、そして、私の事を大切な友人として、こうして手紙という形にして、私の元に届けてくれた事に、じわーんとあったかい気持ちに満たされました。
Facebookでどんどん友達数は増えても、心の声を言える友達って、みんなどれくらいいるのかな。
人と人で向き合う事って、人生で何回していくことなのかな。
「あなたには友達が何人いますか」って質問で、その統計結果は、0.79人という数字が出たという話を聞きました。
という事は一人もいないって言う人がいるって事。思っている事を言える相手が一人もいないって人がいるって言う事。
セッションを受けにきてくれるクライアントさんのお題にも、もっと心をオープンにしたいって言うのがあります。パートナーに言いたい事が言えないって言う人が多い。
傷つくのが怖い。傷つけるのが怖い。
これは、誰もが持っている感情。傷つけるのって怖いし、傷つけられるのってもっと怖い。
でも、ね。
自分って、本当の本当には、傷ついたりしないんじゃないのかなって、最近私はそう思うのです。自分が本当には傷つかないって知っているから、本当には人も傷つかないって思う。
それって語弊を生みそうだから、もう少し説明してみると、
どんな事があっても、それが、自分がやった事のベストで、自分が自分に『本当によくやった◎』って思えていたら、現実的な結果は、断られたり、否定されたり、批判されたり、と、×判定が出たとしても、それがベストな結果ってだけなのじゃないのかな、って、思えるって言う事なのです。
逆に、現実的な結果が◎って判定だとしても、自分が自分に正直でない事を繰り返していたら、最初は表面上の◎が嬉しいけど、そのうち、その◎がうそっぽく思えてきて、心の真ん中にすきま風が吹いている気持ちになるんじゃないかな。
例え表面的には×判定になろうとも、自分の心にまっすぐに、自分が自分に◎を出してあげれるスタンスで物事に接したら、◎だろうと、△だろうと、□だろうと、×だろうと、『それで良しっ!!!』って、潔さが生まれてくるのだと思います。
友達関係だって、きっとそう。表面的な◎を期待しての、こっちの言い方とか、受け答えとか、そんなのもういらないって思うのです。
ぶつかりたいたいならぶつかって、それ違うって心から思うんならそう言って、大好きって思うならそう伝えて。相手が、それに対して×出すかもしれないし、◎出してくれるかもしれないし、うーーん、△って言うかもしれない。でも、それで良しっ。それって、完全に自己満足なのかもしれないけど、自己が満足していないと一体誰を満足させてあげれるんだろうっておもうわけです。
私は傷ついたって言う言葉って、責任を人任せにしている事だなって思うのです。
傷つく事を選択したのは、あくまでも自分。傷ついたと言って、前進するのを止めてしまうのも自分。
前進を止める理由として、だって私は傷ついたのですからって、そう言うのって、もういらないなっておもうのです。
そうじゃなくて、傷ついたって良いから前進しますって言いたいなって。
そして、その傷がかさぶたになって、強い皮膚が再生して、強みになるまで、前進を続けたいなって。
彼女は、この手紙を書くのに、何回も書き直したって。書きかけを、いや、こんな事が言いたいんじゃないって、思って捨ててって、そうやってやっと出来上がった手紙だと。
そうやって、私に伝えなきゃって想いを伝えてくれる、自分にまっすぐな彼女がますます大好きだなって思いました。
手紙って、私の人生ではとても大切な物です。いつも手紙が私を支えてくれた。大切な手紙は、何度も何度も読み返した。
なんで手紙って好きなのかなって思うと、その瞬間に、自分が出来るベストな言葉を伝えたい一心で気持ちを込めて書くから。
大人になっても、過去に誰かとやり取りした手紙は全部取ってあって、実家に帰ると、みてみたりして、苦かったり、笑っちゃったり、ほろっと来たり、その当時に一気にタイムトリップする訳ですが、その瞬間、その瞬間、想いがあったなーって、おもう訳です。
今は、メールでも、Facebookでのメッセージでも、瞬時に届くという事が可能になって、その分便利になった。だから、easy文章になるって訳じゃなくて、込める想いは手紙に込めた想いと同じに、想いの重さを持って伝えて行きたいなって、改めて思った日になりました。
そして、リアル手紙も、やっぱりこんなに良い♪自筆のぬくもりと、感情が、字から紙から伝わってくる。私も手紙、書こう♪