私は弱い
2013年 04月 22日
でも、それもちょっと違うんだろうな、と今は思えるようになりました。そもそも、寂しいと思う自分に蓋をするという時点で、そこに対するブロックがある訳で。
自分って、弱い、すぐ寂しくなる、、、。頑張ってみせているけど、実は、精一杯背伸びしている。
そして、自分で、自分に弱い自分であること、すぐ寂しくなる自分であることを許していなかったんだなーと。
一生懸命、寂しくないよ、とか、私は強いからとか、そんな体裁を整えて、どんだけ蓋をしていきてきたんだろうと。
私は、弱いですって認めてしまうことはとても怖いことですよね。
弱いですって事を公言しても、人を不快にするだけだし、それより、何より、私が弱いと私に価値が無いようで、人が離れていってしまうんじゃないかって言う恐れがあったのだとおもいます。
自分が弱いとか、傷つきやすいとか、もろいとかっていうことが私の中でイコール自分は価値がないに結びついていたんじゃないかとおもいます。
だから、傷ついていたこととか、弱さとかを受け入れるって事って、ありのままの自分であることの価値を受け入れるって事がでいていないと、本当に難しい事になって来ます。
ありのままでいいじゃん、弱くても、強くても、寂しくても、寂しくなくても、それが自分だって認めてあげることで、せめて自分だけは自分の味方でいる事で、自分の中に、安心スペースが出来てくるのですね。
自分のボトムを知るという感覚ですね。
自分のボトムを知れたら、自分で自分が弱いことを認めてあげれたら、そこから一歩一歩進めば良いんじゃないのかなー。そして、そこには、自分に対して隠して、無かったことにしている感覚は無い感じです。いずみちゃんが以前紹介していた、傷つく事を恐れないの記事
のBrene Brownさんが言っている、自分がもろいって事を麻痺させて生きている状態だと、何に対して嬉しいのか、本当に嬉しい事とか、本当に楽しい事とかへの感覚も麻痺させている状態なんだと。
結局、自分の感覚を大切に、自分を生きるというのは、傷ついた時に、傷ついた自分を素直に認めれて、その悲しみの中に、逃げないでちゃんと居れる事から始まるのかもしれません。
どんなに辛い状況でも、その状況である『今』にいる事に徹するというのは、その人のオーラをとても輝かせるものだと聞きました。
沸き起こる感情を、それがどんな感情でも、しっかり味わって、『今』にいて、そこからまた一歩一歩進んでいくことなんだなーとおもいます。